2026年06月28日
当社の関連で行っているスペースマルマツ、
ギャラリートークが終了しましたので添付します。
良かったか長文ですが見てください。
輪島市における美術家・畠中陽一氏の事例を中心とした総合的考察
序論:能登半島における複合災害と文化資本の危機
本稿は、石川県輪島市を拠点とする美術家・畠中陽一氏の講演記録ならびに関連する災害・復旧・支援技術の諸データをもとに、令和6年(2024年)能登半島地震および同年9月に発生した奥能登豪雨という「複合災害(二重被災)」が、個人の生業、地域コミュニティ、そして芸術的表現のパラダイムにいかなる変容をもたらしたかを実証的かつ理論的に分析する研究レポートである。
長年関東圏で現代アート画家として活動していた畠中氏は、2021年に故郷の輪島市へUターンし、和紙と漆を用いた独自の表現活動を展開していた1。しかし、自らの原風景であり活動拠点でもあった築130年の歴史的建造物を地震とその後の火災で喪失し、さらに復興の途上で発生した記録的豪雨によって仮設工房をも土砂に奪われるという過酷な経験を余儀なくされた1。
本報告では、第一に輪島市という特異な地理的・歴史的空間の構造を明らかにし、第二に地震とそれに伴う火災がもたらした物理的・文化的破壊の連鎖を検証する。第三に、避難所生活において導入された名古屋工業大学・北川啓介教授による「インスタントハウス」の技術的特性と、そこでのアートを通じた心理的介入の意義を考察する。第四に、奥能登豪雨の気象学的メカニズムと被害の実態を整理し、最後に、度重なる喪失を経て畠中氏の創作概念が「完成された造形物」から、命の循環や記憶を共有する「プロセスの芸術」へとパラダイムシフトを遂げた過程を浮き彫りにする。
輪島市の歴史的空間構造と伝統的生業
被災前の輪島市の空間的特性と、畠中氏の活動拠点の歴史的背景を理解することは、震災によって失われた文化資本の重大性を評価する上で不可欠の前提となる。
地政学的特性と古地図が示す「海との結びつき」
講演において提示された明治36年(1903年)の輪島町の手書き古地図は、能登半島の地政学的アイデンティティを端的に表象している。この古地図は、日本海が図面の上部に配置されるよう、現代の一般的な北を上とする地図とは「反転」して描かれている1。これは、陸路の整備が未発達であった時代において、海路を中心とした交易・文化交流こそが輪島の社会経済的基盤であったことを示唆している。当時の輪島町の人口は約1万人を数えたが、現代においては約6,000人規模へと減少しており、地方都市特有の過疎化と高齢化が進行する脆弱な社会構造を抱えていた1。
町の中心空間には地域の守護神である重蔵神社(通称:十三神社)が鎮座し、河原田川が流れ、日本三大朝市の一つに数えられる「輪島朝市」のL字型の通りが形成されている1。畠中氏の生家でありギャラリーでもあった建造物は、この朝市通りの中心部、いわゆる「どんつき(突き当たり)」を曲がった至近距離に位置していた1。
塗師屋建築における「従前職後」と漆芸のインキュベーター
畠中氏の家屋は、明治21年(1888年)に曾祖父が建造した築130年を誇る伝統的建造物であった1。この家屋は、輪島の漆職人(塗師屋)特有の「従前職後(じゅうぜんしょくご)」と呼ばれる空間的二重構造を有していた1。これは、通りに面した前方に「住居(従・住)」を配置し、奥に「仕事場(職)」を配置する様式であり、商空間と生産空間を不可分に結びつける地域特有の建築形態である。
特に注目すべきは、観光客を迎える玄関に施された「黒漆喰の磨き壁」の存在である。漆喰を塗布した後に油を用いて手のひらで長期間磨き上げることで生み出されるこの壁面は、輪島の熟練した漆職人すらも「漆を混ぜているのか」と驚嘆するほどの光沢と経年変化の美しさを体現していた1。さらに、敷地の奥には2棟の土蔵が組み込まれており、そのうちの「主蔵(ぬしぐら)」は、漆の上塗り作業専用の空間として機能していた1。漆は微細な埃を極端に嫌う性質を持つため、年間を通じて温度と湿度が一定に保たれ、外部環境から隔離された土蔵の内部空間が、最高品質の輪島塗を生み出す必須のインキュベーター(培養器)であったのである。
畠中氏は43年間の神奈川県での生活を経て2021年に輪島市民となり、約1年をかけてこの歴史的建造物をリフォームし、2023年4月にギャラリー「アトリエYo-Ku」を開設した1。月に100名を超える観光客を迎え入れ、漆アートと塗師屋建築の歴史的空間を体験させるという、文化伝承と地域活性化の結節点として機能し始めてからわずか290日目に、未曾有の災害がこの地を襲うこととなる1。
令和6年能登半島地震:発災の瞬間と文化的遺産の焼失
2024年1月1日午後4時10分、能登地方を最大震度7の激震が襲った。発災時のミクロな身体的体験の記録は、災害の即時的破壊力と、地域の歴史的記憶が消滅していくプロセスを詳細に物語っている。
瞬時倒壊と津波からの広域避難
元日も年間計画を立てるために仕事場にいた畠中氏は、午後4時近くに奥の仕事場から前方の茶の間へと移動していた1。2年ほど前から珠洲市を震源とする群発地震が継続していたため、初期の揺れに対しては大きな警戒を抱かなかったものの、午後4時10分の本震は「感覚的にこの家が潰れる」と即座に直感させるほどの根源的な破壊力を伴っていた1。
震度7の揺れは、模擬体験装置などとは次元の異なる暴力性を孕んでいた。土間に飛び降りて屋外へ逃れた瞬間に家屋は倒壊し、逃げる途上で自身の進行方向と地面の揺れの方向が一致してダイブする形となり、落下する瓦礫によって右足小指を骨折した1。しかし、極限の興奮状態においては痛覚すら麻痺しており、防災無線が連呼する「大津波」の警報に従い、東日本大震災の教訓をもとに高台への避難を決断した1。周辺で最も標高が高い航空自衛隊の輪島分屯基地を目指し、時間差で倒壊していく古い家屋の轟音(ガシャーという破壊音)を背に聞きながら、約20分間小走りで避難行動をとった1。
朝市通りの大火災と歴史的連続性の断絶
翌朝、自身の家屋を確認に戻ったものの、朝市周辺は広範囲にわたって延焼が続いており、熱気で接近することすら不可能な状態であった1。鎮火後に確認されたのは、完全に焼け野原となった町の姿であり、親戚の遺骨が発見されるという凄惨な現実であった1。
築130年の家屋、手付かずのおせち料理、天保年間(江戸時代)から受け継がれてきた古文書や漆器など、紙や木で構成された歴史的資産はことごとく灰燼に帰した1。かろうじて燃え残ったのは、土蔵の扉1枚と、焼け跡から掘り出された九谷焼や伊万里焼の陶片のみであった1。後に畠中氏は、ドローン操縦士の友人を介して、本堂を解体せざるを得なくなった寺院から昭和7年(1932年)の法典などを譲り受けたが1、これは自家の天保年間の記録が永遠に失われたことの代償行為であり、輪島という地域社会の歴史的連続性が物理的に断絶されたことを象徴している。
避難所における空間論的介入と「インスタントハウス」の社会的機能
発災直後から数ヶ月に及ぶ避難生活は、被災者の身体的・精神的健康に多大な影響を及ぼす。輪島中学校の体育館における避難生活の段階的推移と、外部からの革新的な建築技術の導入は、災害支援における「空間の質」の重要性を如実に示している。
避難空間の段階的変遷
避難環境は、時間経過とともに以下のように変遷をたどった。
段階
時期・期間
避難環境・シェルター形態
空間的・心理的特徴と課題
第1期
発災直後〜数日
航空自衛隊広場(屋外)
約1,000名が氷点下の屋外に密集。支給された毛布のみで夜を明かす。生命維持と安全確保が最優先される極限のサバイバル状態。1
第2期
その後約2週間
輪島中体育館(雑魚寝)
プライバシーが全く存在しない均質な開放空間。持続的な視線と環境ノイズにより、深刻な精神的疲労が蓄積。1
第3期
発災から約2週間後
キャンプ用テント(屋内)
視線を遮る最低限の物理的境界が形成され、お茶を楽しむ程度の心理的ゆとりが生まれる。しかし断熱・遮音性は低い。1
第4期
1月28日以降
インスタントハウス(段ボール製)
空間の完全な区切りと屋根の存在により、断熱性・遮音性が飛躍的に向上。個人の尊厳を守る空間が創出される。1
第5期
復旧期(現在)
トレーラーハウス(屋外)
北海道仕様の高い気密性と断熱性を持つ。恒常的な生活のベースキャンプとして機能するが、元の家屋と比較すると手狭である。1
北川啓介教授による「インスタントハウス」の技術的特性
第4期における環境の劇的な改善をもたらしたのが、名古屋工業大学の北川啓介教授が開発した「インスタントハウス」である7。北川教授は、東日本大震災時の石巻市や仙台市での避難所視察における被災児童との対話を契機として、誰でも迅速かつ安価に構築でき、高い居住性を備えた簡易住宅の研究開発を進めてきた8。
輪島中学校等に導入されたインスタントハウスには、用途に応じて大きく2つのモデルが存在し、それぞれ異なる技術的アプローチが採用されている。
仕様項目
屋内用インスタントハウス(避難所・体育館用)
屋外用インスタントハウス(仮設工房・住居用)
主素材
空気層を持つ「ダブル」構造の段ボール、PP留め具
テント膜材、発泡ウレタン系断熱材
施工時間
約15分(小学生2名でも組み立て可能)
約1〜2時間(送風機で膨張後、内側から断熱材を吹付)
床面積
1.0㎡(0.61畳)〜 7.69㎡(4.63畳)など自在
多様なサイズ展開が可能(遊牧民のゲルのような外観)
原価目安
非公開(低コストで量産可能)
約20万円〜30万円8
主要機能
視線の遮断、遮音性、体育館の冷気からの断熱
寒暑・風雨・積雪・地震に耐えうる高い堅牢性と断熱性
社会実装
能登半島地震の各避難所(授乳室や着替え室としても活用)
トルコ・シリア地震、モロッコ大地震等で実績あり
7
体育館の窓ガラスが割れ、極寒の環境下にあった輪島中学校において、この段ボール製ハウスは単なる物理的シェルターを超え、被災者が「未来に希望を持って生活していく」ための心理的安全基地として機能した8。
アートを通じた空間のカスタマイズと心理的ケア
インスタントハウスの導入は、副次的に被災者の心理的ケアのプラットフォームとしても機能した。段ボールという素材は、表面に直接絵を描いたり装飾を施したりすることが可能であり、画一的な避難所空間に対するユーザーの「オリジナリティの反映」を許容する余白を持っていたからである12。
畠中氏は、東京の知人から支援物資として送られてきたアクリル絵の具等の画材を用い、自身の居住棟の外壁に「ハートカズラ(英名:ラブチェーン)」を描き始めた1。花言葉で「協力」や「助け合い」を意味するこの植物のモチーフを、ハート形の葉を一枚一枚描き連ねていく行為は、焼け野原となった外部環境や、色彩に乏しい体育館の閉鎖的空間に対する心理的抵抗であった1。
この個人的な創作行為は、瞬く間に周囲の避難者の関心を引き、隣接するテントの住民からの依頼や、子どもたちが参加して絵を描き足すという参加型のソーシャル・エンゲージド・アートへと発展した1。SNS上では「バンクシー現る」と話題になり、子どもたちがドラえもんや魚を描くなど1、規則と制約に縛られた避難所生活の中に「ノイズ(個性や遊びの要素)」が持ち込まれることで、被災者の抑うつ状態や孤独感を緩和する極めて重要なメンタルケアとして機能したと評価できる。
復興への萌芽と奥能登豪雨による「二重の被災」
避難所生活を経て、畠中氏は友人のガレージを拠点とした「復興カフェ」の立ち上げや、全国から集まった総勢600名超(計54回)の重機・人力ボランティアの支援を受け、自宅跡地の瓦礫撤去と生活再建を進めていった1。生活基盤として気密性の高いトレーラーハウスを導入し、仕事場としては北川教授から提供された屋外用インスタントハウスを3棟設置した1。2024年8月頃には、震災前には及ばないものの、かなりのボリュームで和紙と漆による創作活動を再開できる状態まで復旧を遂げていた1。
令和6年9月奥能登豪雨の気象学的メカニズムと被害実態
しかし、復興への歩みが軌道に乗り始めた矢先の2024年9月21日、能登地方を記録的な豪雨が襲った(令和6年9月能登半島豪雨/奥能登豪雨)。台風14号から変化した温帯低気圧や秋雨前線に向かって暖かく湿った空気が流れ込み、大気の状態が極めて不安定となった結果、線状降水帯が発生したのである13。
国土交通省および気象庁のデータによれば、輪島市では9月21日の午前8時から11時頃にかけて猛烈な雨が集中し、日最大1時間降水量が121.0mm(午前8時22分〜9時22分)、月最大24時間降水量は統計開始以来最大となる412mmを記録した13。午前10時50分には輪島市、珠洲市、能登町に大雨特別警報が発表されたが、急激な水位上昇や土砂崩れに対して警報や避難行動が全く追いつかず、広域での避難は極めて困難な状況に陥った14。
この豪雨の破壊力を増幅させたのは、1月の地震による地盤の緩みである。地震によって亀裂が入っていた急峻な斜面に大量の雨水が浸透したことで、奥能登全域で約1,900箇所に及ぶ土砂流出が発生した。これは能登半島地震時の約2,200箇所に迫る規模である14。塚田川や若山川などの中小河川では、崩落した土砂や流木が橋梁等に堆積して河道を閉塞(バックウォーター現象)させ、泥水が迂回流となって集落を直撃した13。海岸線を走る国道249号でも、中屋トンネル付近をはじめとする146箇所で被災(うち新規被災101箇所、斜面崩壊60箇所、土石流39箇所)が発生し、再び地域が孤立状態へと追い込まれた16。
仮設工房の倒壊と「珪藻土」という素材の二面性
この豪雨に伴う裏山の土砂崩れによって、畠中氏の仮設工房(屋外用インスタントハウス)は直撃を受け、完全に押し潰された1。工房内に保管されていた再起に向けた作品群は、大量の泥の中に埋没し、立体作品は強大な土圧によって平面状に圧縮されるという甚大な被害を受けた1。
ここで特筆すべきは、流れ込んだ泥の成分と、畠中氏の生業との数奇な関係性である。能登半島の地層の約6割は、太古の植物性プランクトンや海藻が数万年にわたって堆積し化石化した「珪藻土(けいそうど)」によって構成されている1。珪藻土は水に溶けやすく、水分を含むと極めて軟弱な泥となる性質を持つ。一方で、この珪藻土は輪島塗の堅牢性を根底から支える極めて重要な天然素材でもある。輪島塗では、木地の壊れやすい部分(縁など)に麻布を貼る「布着せ」という工程の後、この珪藻土を蒸し焼きにして粉砕したもの(地の粉)と漆を混ぜ合わせたものを塗布して地固めを行うことで、世界に類を見ない耐久性を実現している1。
すなわち、自身の生業の基盤素材であり、能登の大地そのものを形成する珪藻土の奔流によって、畠中氏の作品と日常は呑み込まれたのである。しかし、畠中氏はこの泥の中から、漆が染み込んでいたために腐食を免れた和紙(雁皮など)の作品を掘り出し、シャワーで泥を落とし、変形した立体作品を再び元の形状に「再構築」するという執念の作業を通じて、芸術家としてのアイデンティティを繋ぎ止めた1。
喪失からの再生と芸術的パラダイムシフト
二度にわたる未曾有の喪失体験は、一人の美術家の内面に不可逆的なパラダイムシフトをもたらした。畠中氏は講演において、「震災を境に、自分が今までやってきた美術の世界がガラッと変わった。それまでは完成された『モノ(造形物)』を作る作品主義であったが、震災以降は命の循環やプロセスそのものが自分の作品になった」と述懐している1。
この表現概念のメタモルフォーゼは、大きく3つの実践的プロジェクトおよび手法の変化として顕在化している。
1. 命の循環のメタファー:「柿の木のひこばえ」プロジェクト
火災によって焼失した実家の庭の奥に、真っ黒に焼け焦げた一本の柿の木が残されていた。完全に枯死したと思われていたその根元から、発災から約10ヶ月後の2024年10月24日、新たな新芽(ひこばえ)が生え出ているのが発見された1。
畠中氏はこの新芽の力強い生命力に、震災で亡くなった親戚や隣人たちの命の痕跡を重ね合わせた。「自分がこの世を去った後も、この新芽が成長して実をつけ、また新たな種から芽が出るという命の循環のバトンを繋ぐこと」。これこそが震災後に自身に課せられた使命であり、新たなアートの実践形態であると再定義したのである1。現在、畠中氏はこの新芽を持参して各地でギャラリートークを行い、来場者に引き継いで育ててもらうという、参加型かつ分散型の「関係性の芸術(リレーショナル・アート)」を展開している。
2. 空間の記憶のアーカイブと昇華:映像作品『土の間の宴』
物理的な痕跡をデジタル空間に記録し、それを芸術的次元へと昇華させたのが、映像作品『土の間の宴(つちのまのうたげ)』である1。
2024年2月、公費解体による撤去が決定し、町全体が更地へと変貌していく中、畠中氏はボランティアの協力を得て、瓦礫に埋もれていた130年前の「土間」の姿をギリギリの段階で掘り起こすことに成功した。現場監督から「これ以上は危険なので立ち入らないでほしい」と通告されるわずか3日前の出来事であった1。
焼け焦げながらも圧倒的な美しさと歴史的重みを湛える土間を前に、畠中氏の中の「絵描き魂」が覚醒した。先祖への畏敬の念から、この廃墟を単に解体されるだけの無機質な空間として手放すことを拒絶し、「この土間を舞台にもう一つの作品を作ろう」と決意したのである1。降雪の合間を縫って国土交通省への許可申請を行い、ドローンを用いて土間の空間や自身が作画する姿を高画質で記録した1。
この映像作品は、失われゆく輪島の伝統建築のアーカイブ機能を持つと同時に、破壊された空間自体をカンヴァスに見立てたサイト・スペシフィック・アートとして機能している。本作は関東圏(川崎市の小杉画廊等)における個展などでも上映され、被災地の「生きる熱量」を外部へ伝達する強力なメディアとなっている18。
3. 素材の脱構築とトラウマの可視化:意図的な「ひび割れ」の許容
手法の面においても、伝統的なルールの意図的な脱構築が行われている。先述の通り、輪島塗において珪藻土は、表面からは見えない下地の強度を高めるための裏方である。塗師たちは美しい塗面を維持するため、配合を極度に工夫し、「ひび割れ」が絶対に生じないように細心の注意を払うのが業界の鉄則である1。
しかし、畠中氏は現代アートを出発点とする自身の強みを生かし、あえて珪藻土を多めに配合し、完成した作品の表面に意図的に「ひび割れ」を生じさせる表現を取り入れ始めた1。伝統工芸の観点からは不良品(NG)とされるこの亀裂は、地震によって無惨に引き裂かれた能登の大地そのもののメタファーであり、隠蔽すべき傷跡をあえて露出させるという、二重被災を生き抜いた当事者にしか成し得ない強烈な表現論理の獲得を意味している。
畠中陽一氏の作品世界とその社会的拡張
畠中氏の芸術的基盤は、震災以前からの確固たる実績と独自技法によって裏打ちされている。1997年より「能登仁行和紙(杉皮を漉き込んで強度を高めた伝統和紙)」と漆を組み合わせた独自の制作を開始し4、2023年にはテーブルウェアフェスティバルにおいてオリジナルデザイン部門の最優秀賞(東京都知事賞)を受賞するなど、そのデザイン性と実用性は高く評価されていた3。
現在の活動拠点やオンラインショップ等で展開されている主要な作品群は、以下の通りである。
作品名
主な素材・特徴
参考価格帯(税込)
芸術的・実用的意義
Cube(インテリアアート)
和紙の原料(靭皮)で成形し漆仕上げ
16,500円〜22,000円
ユーザーが花器や灯りとして自由に「足し算」して使える造形性3
漆塗りのコースター
能登仁行和紙、顔料、漆コーティング
1,650円〜6,600円
手描き紋様の独自性と、水洗い可能な実用性の両立3
泥と瓦礫を用いた平面作品
焼失した土蔵の土、裏山の土砂
展示用(非売品の可能性)
豪雨で押し潰された「土」そのものを顔料として使用した追悼のアート18
これらの作品は、妻・久美子氏(アクセサリー制作等)との協働組織である「アトリエYo-Ku」を通じて制作・発信されており、クラウドファンディング等を通じて全国からの支援を受けながら、朝市通りへのギャラリー再建という明確な目標に向かって駆動している2。
結論:復興のグランドデザインと芸術の役割
本レポートでの実証的分析を通じて、令和6年の能登半島地震および奥能登豪雨という未曾有の複合災害は、インフラや経済的基盤のみならず、地域社会の記憶と文化的アイデンティティの継承に深刻な断絶をもたらしたことが明確となった。
畠中陽一氏の被災体験と表現活動の軌跡は、災害からの復興が単なる「物理的な原状回復」や「インフラの再構築」に留まるべきではないことを強く示唆している。行政主導による公費解体や防潮堤の整備、あるいは画一的な仮設住宅の建設は、生命の安全を担保するための不可欠な「箱」作りではある。しかし畠中氏が指摘するように、「箱ができて、それでシャンシャン(終わり)ということではない。そこに我々がアイデアを詰め込んでいかなきゃいけない。それが輪島の復興だろう」という視座こそが、持続可能な地域再生の要諦である1。
古地図に示されるような「海と生きる」気概や、塗師屋建築に見られる「職能と生活の融合」といった地域の文化的DNAは、建物が焼失してもなお、そこに住む人々の身体と記憶の中に残存している。避難所の段ボールハウスに描かれた植物の絵画、焼け跡から見出された柿の木の新芽、そして豪雨の泥(珪藻土)を用いて意図的な亀裂を纏った和紙と漆の作品群は、被災地のトラウマを鎮魂し、未来への連帯を可視化する極めて有効な「社会的装置」として機能している1。
畠中氏のアートは、失われた過去へのノスタルジーにとどまらず、他者との関係性を編み直し、輪島という土地のレジリエンス(回復力)を次世代へと手渡すための実践的プロセスそのものである。今後、数十年単位での長期化が予想される能登半島の復興過程において、こうした当事者自身による文化的・芸術的実践こそが、コミュニティの精神的紐帯を維持し、新たな都市の価値を創造するための最も不可欠な原動力となるだろう。